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このページの最新更新日 2010年1月
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○花隈(熊)城の戦い
群雄が割拠する戦国の世。兵庫では細川澄元→滝山城を本拠とした三好長慶→松永久秀→三好三人衆へと支配が移り、最終的には滝山城を下した織田信長の支配下になります。
1574年(天正2年)信長は西摂地方に勢力を張っていた荒木村重に命じ花熊城を築かせ、支配させました。しかし、村重は信長への恐怖心から宿敵毛利氏側に寝返ってしまうのです。ならばと信長は池田信輝、輝政父子に花隈城攻撃を命じ、あっけなく陥落させます。これが花隈城の戦いです。1580年(天正8年)それは、「本能寺の変」の二年前でした。
池田信輝は花隈城を解体、新たに港近くに兵庫城を築き、城下町整備を進めましたが、2年後信長、本能寺において死去。
○秀吉と有馬と慶長の大地震
信長にかわり天下統一を進める豊臣秀吉は1583年(天正11年)の「太閤検地」によって兵庫を直轄領とし、召し上げました。兵庫の経済力を見たのでしょうか。
この年の8月、秀吉は正室のねね(北の政所)を伴い有馬温泉を訪れています。以後有馬を大いに気に入り、記録に残っているだけでも約10回訪ね、逗留のための館まで建てました。さらに後年には「湯山御殿」を建設させましたが、入湯することなく没しています。
そして…秀吉政権の末期、1596年(慶長1年)近畿地方を大地震が襲います。「慶長の大地震」です。神戸・有馬では家屋の大部分が倒壊・炎上、壊滅的な打撃を受けてしまいます。秀吉の伏見城天守閣の倒壊は歴史書等で象徴的に伝えられ、よく知られますが「兵庫は全滅」とも史実は伝えているのです。またしても…どのように、どれくらいの人々が…皆目分からぬままに。
1598年(慶長3年)秀吉は62歳で死去。1600年「関が原の戦い」に圧勝した徳川家康は1603年征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きます。兵庫を直接支配したのは尼崎藩5万石の戸田氏鉄でした。
○兵庫の津の活況
さて、兵庫の津はこのように戦乱・戦火、災害に翻弄され続けました。貿易の中心はおよそ100年に及び堺港に奪われたまま。しかし、幕府による西廻り船の開拓、(東北・北陸地方と日本海を通る海運)を契機に一気に蘇ります。米、海産物を関西へ、関西からは織物や赤穂の塩などを運び、瀬戸内の良港兵庫は大いに活況を呈します。
○灘の活況
江戸も中期になると、灘を中心に酒造りが盛んになり兵庫から江戸への海路、樽回船が就航するようになります。六甲山の宮水によるキリリとした辛口の酒は江戸においても大人気であったといわれています。さらに淡路出身の高田屋嘉兵衛は西廻り船をさらに北へと伸ばし北海道への航路「北前船」を発展させています。
この時代の神戸村民の仕事は大部分農業に従事するも、海運問屋・酒造、その酒造をはじめ、水車小屋での精米、搾油、小麦粉の製造などに携わったと想像されます。
山から海への距離が近いという地形を利用した灘の水車産業はそれまでの人力作業に比べ、画期的に生産性を向上させ、それが海運業の繁栄にも繋がっていきました。
○ペリーの来航と混乱
19世紀になると兵庫商業の発展とはうらはらに徳川幕府の力は急速に弱まります。文明開化の足音。
1853(嘉永6年)アメリカのペリーが来航し、開国を要求。翌1854年日米和親条約締結。この条約で下田・函館の開港を認め、鎖国体制に終止符がうたれます。そして1858年(安政5年)欧米5カ国と通商条約を結び、兵庫をはじめ新潟・横浜・長崎の開港を約束します。徳川幕府の独断で行われたこの条約締結は国内を攘夷派・開国派が複雑に入り乱れ、「安政の大獄」「桜田門外の変」を引き起こすのでした。
○開港へむかって
通称条約に基づき函館・新潟・横浜・長崎を開港したものの、兵庫は京の玄関口であることから朝廷の許可が下りず、むしろ長州藩による湾岸警備のため、騒然となりました。
1866年(慶応2年)坂本竜馬などの取り成しで、それまで幕府側だった薩摩藩は長州藩と共に倒幕へと向かいます。いわゆる薩長同盟。これによって幕府は一気に凋落、時の十五代将軍徳川慶喜は1867年10月14日政権を朝廷に渡します。「大政奉還」です。くすぶりつづける幕府側と鳥羽伏見の戦いで最終決着を付け、王政復古の宣言とともに明治新政府が成立します。時は1868年(慶応3年)1月3日。






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