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神戸は「ハイカラ文化の街」なとどとして、歴史は1868年(旧暦の慶応3年)神戸港開港から語られることが多いのですが、平安時代にはかりにもわずか半年とはいえ、日本の首都になった場所でありました。そして「一ノ谷」「湊川」「花隈」と日本歴史のターニングポイントになる各合戦がこの地で繰り広げられました。また、こういった権力闘争のほか、大規模な天災や戦火に蹂躙された「神戸の街」の歴史を古代から遡りみることで単にハイカラ・オシャレばかりとはいえない港湾都市としての神戸を探ってみたいと思います。
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このページの最新更新日 2007年8月
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○福原遷都
1156年保元の乱、1159年平治の乱を経て平清盛が平氏政権を握ります。時に1167年(仁安2年)。権力がそれまでの貴族から武士に移った時代です。
実権を握った清盛は山陽道、大輪田の泊をもつ兵庫が戦略の拠点になると判断します。福原荘に移り住み、大輪田の泊を大改修し、中国の宋との貿易を強化した上で一気に都を福原に移す決心をします。1180年(治承4年)11月、幼い安徳天皇を擁し三種の神器と共に福原新皇居へ入城。これが世に言う「福原遷都」です。
さらに清盛は新都城計画として現在の須磨・兵庫・長田区一帯に「和田京」を構想します。夢の「国際貿易都市構想」でした。
ところが京では源頼朝が挙兵。計画は頓挫し、都は再び京へ戻ってしまうことになります。福原遷都は1180年4月の宣言から六ヶ月、天皇入城からわずか12日で終焉してしまうのです。
このように遷都は短命に終わりましたが、清盛が着目した温暖な瀬戸内、良好な港湾と東西陸路の幹線、山陽道をもつこの地は海陸貿易を中心にしてのちのち繁栄してゆきます。
また、清盛による大輪田の泊の整備に伴い、防波堤としての「築島」工事が行われました。これにからんで30人の人柱の身代わりとして名乗りを上げた「松王丸伝説」が残っています。政争、神への畏怖、階級社会の陰、情愛…様々に想われる伝説です。
○一ノ谷の合戦
都が京へ戻った翌年、平清盛は失意のうちに亡くなり、以後平家は木曽義仲に追われ西国へ落ちのびて行きます。時に1183年。その折、福原に立ち寄って遷都ゆかりの建物をことごとく焼き払ったため、平家の栄華をとどめるものは何一つ現存していないのです。残っていれば…。です。
さて、京では後白河法皇と木曽義仲が対立し、義仲を討つべく源範頼、義経らが上ってき、源氏分裂の様相を見せます。四国の屋島で機を伺っていた平家はここぞとばかり1184年正月、屋島を発し福原に戻ってきます。そして東の生田の森、西の須磨・一ノ谷に陣を張り源氏との決戦を待ったのです。
果たして1184年(寿永3年)2月7日夜明け。源氏の総攻撃開始。旧神戸市域のいたるところで戦いが繰り広げられるも、とりわけ義経軍による三木山中から平家の背後を襲う「鵯越の坂落とし」は激烈を極めます。この奇襲において平家は総崩れになり、以後屋島、壇ノ浦と戦いは続くけれど平家滅亡の要因がこの「一ノ谷の合戦」にあったことは否定できません。
なお、「一ノ谷の合戦」という場合、広い意味で旧神戸市街全域の戦いであり「生田の森の戦い」も含まれます。
平家の滅亡は時代を平安から鎌倉へと移し、この地の名称は「大輪田の泊」から「兵庫の津」と呼ばれるようになっていきました。



